走る都市、拡張するブランド体験 ― TCSニューヨークマラソンEXPOが示す“スポーツ×テック×UX”の未来


11月初旬、マンハッタン西岸にそびえるジャヴィッツ・コンベンションセンター。通常であれば無機質な巨大展示場であるはずのその場所が、一夜にして「世界最大のスポーツテック・ショーケース」に姿を変えた。

TCSニューヨークシティマラソンEXPO。

世界中から集まる約7万人のランナー(2024年実績では参加者5万人超、EXPO来場者は数十万規模に達する)がゼッケンを受け取るために訪れるこの場所は、単なる事務手続きの会場では断じてない。

AI、ウェアラブル、リカバリー(回復)、スキンケア、栄養学、そしてモビリティ。現代の都市生活者を支える複数の産業が「ランニング」という一つのプリズムを通して有機的に融合し、巨大な「走る経済圏」の縮図を現出させていた。

私はこの“祝祭空間”で、テクノロジーがいかにして人間の身体的な体験を拡張し、そしてブランドがUX(ユーザーエクスペリエンス)という形で極めて高度な“感情のデザイン”を行っているかを、興奮と共に観察した。

本稿の目的は、この現地での体験を起点とすることにある。TCSニューヨークマラソンEXPOという、極めて洗練された「マーケティング装置」であり「未来の体験モデル」でもある空間の構造を、UXストラテジストの視点から解剖し、その構造が日本の多くの企業にどのような実務的示唆を与えるのかを導き出していくことだ。


第1章:現地体験の具体的描写(感情UIの分析)

会場であるジャヴィッツ・センターに足を踏み入れた瞬間に感じるのは、「祭り」と「未来」が同居する圧倒的な熱気だった。

まず驚かされるのは、空間そのものの設計だ。天井高くまで自然光を取り込むガラス張りの構造が、屋内でありながらマンハッタンの空とつながるような開放感を生み出している。これは、ランナーが本番で体験する「都市を走る」という感覚を、無意識レベルで予兆させるUXデザインに他ならない。照明は単に明るいのではなく、柔らかく、各ブースのトーンは無機質なテクノロジーイベント(例えばCESのような)とは一線を画す。ランナーの心拍や高揚感と同調するかのような、温度感のある光と音響で空間全体が設計されている。

入口からゼッケンピックアップのカウンターを過ぎ、メインフロアに進む。まずランナーを圧倒するのは、会場のほぼ中央、最も広大な面積を占める公式アパレルスポンサー、ニューバランスの物販エリアだ。

そこは単なる「売り場」ではなく、「コミュニティの広場」として機能していた。限定Tシャツやキャップが文字通り飛ぶように売れていく。人々は、その場で着替え、鏡の前で写真を撮り、見知らぬランナー同士で「どこから来たんだ?」「目標タイムは?」と声を掛け合う。

私が観察したのは、彼らが“物”を買っているのではないという事実だ。「これは自分が7万人の仲間の一員であり、この歴史的な大会を走る証だ」という、極めて強力な心理的充足、すなわち“物語”を購入している。ニューバランスは、高品質なアパレルを売ることを通じて、「大会への心理的な参加」と「所属証明のソーシャル・バッジ」を販売しているのである。

この巨大な「広場」で高揚感を高めたランナーたちが、いよいよ各ブランドの体験ゾーンへと進んでいく。

目に飛び込むのが、冠スポンサーであるTCS(タタ・コンサルタンシー・サービシズ)の巨大スクリーンだ。マンハッタンのコース全景が3Dで表示され、その横ではAIチャットが「あなたのスタートウェーブ」「レース当日の詳細な天候予測」「おすすめの応援スポット」をパーソナライズドして教えてくれる。

ここに、このEXPOのUXの重要な柱が見て取れる。彼らが提供している価値は、単なる「情報提供」に留まらない。それは**「安心感」というUXそのもの**だと考察できる。

そもそも数万人が参加する巨大イベントにおいて、情報は時にノイズとなり、ランナーの不安を増幅させる主要因となる。「自分のスタート時間は?」「天候は?」「最適な応援スポットは?」――これらの無数の問いが、レース前のランナーの集中力を削いでいく。

TCSは、冠スポンサーおよび世界的なITコンサル企業として、その課題をAIとデータ活用で正面から解決しようとしている。膨大な情報を個々人に最適化してフィルタリングし、「あなた」に必要な情報だけを的確に届ける。

これにより、ランナーは「自分はレースに集中すればいい」という心理的安全性を獲得できる。情報提供を画一的な掲示板や分厚いパンフレットに頼りがちだった従来のイベント運営とは、一線を画す戦略的なUX設計である。

さらに奥へ進むと、体験型ブースの壮観な光景が広がる。

FLYLABのブースではトレッドミル上を走ると、足の接地やフォームデータがリアルタイムで可視化され、大型スクリーンに自分の走りが投影される。体験者の多くは、最初は緊張した面持ちだが、スクリーンに映し出された自分のデータと走行感覚に、驚きと笑顔を浮かべ、即座にスマートフォンを取り出してその様子を撮影する。この「パフォーマンスの可視化」による自己肯定感の増幅、そして「撮影・共有」というUGC(ユーザー生成コンテンツ)へのシームレスな誘導。この一連の感情の揺らぎこそが、彼らのUXデザインの中心である。

Shokz(ショックス)の骨伝導イヤホン試聴エリアでは、都市ランニングのジレンマ(音楽による没入感と、外界音による安全確保のトレードオフ)を見事に解消する体験が提供されていた。マンハッタンの雑踏を模した騒音の中で、音楽と周囲の音の完璧なバランスを体感できる。「耳を塞がないこと」が、単なる機能的便益を超え、「都市からの自由」を象徴するように感じられた。

そして、印象的だったのがHyperice(ハイパーアイス)の回復ブースだ。ランナーが足を空気圧を利用したリカバリー・ブーツに入れた瞬間、レース前の緊張と移動の疲労が抜けていくような明確な快感を覚える。重要なのはここからだ。スタッフが笑顔で「気持ちいいでしょう? アプリで強度を調整できますよ」とスマートフォン操作を教える。テクノロジーによる物理的回復と、人間による精神的なケア(「ケアされる体験」)の融合。

ニューバランスの「所属」、TCSの「安心」、FLY LABの「自己肯定」、Shokzの「自由」、Hypericeの「回復」。このEXPOの全ての接点が、「走る身体と、それに伴走する感情の最適化」という一つの目的に向かって、緻密に設計されていると私は考察した。


第2章:UX設計とブランド戦略の狙い

この壮大なEXPOの空間設計と体験フローには、どのようなブランド戦略とUX思想が貫かれているのだろうか。

私は、その核心的な狙いを「Before the Race, Feel the Race(走る前に、走りを感じる)」という構造にあると分析する。これは単なる期待感の醸成(Hype)ではない。レース本番でランナーが体験するであろう「挑戦」「困難」「達成感」「コミュニティとの繋がり」といった全ての要素を、安全なEXPOという環境下で凝縮し、「成功体験の事前シミュレーション」をさせることにある。

各ブランドの戦略は、この大局的なUXジャーニーの中で、明確な役割を担っている。

例えば、ニューバランスがなぜ会場の中央に「物販」を配置したのか。第1章で描写した通り、それは「ゼッケン受け取り」の直後というランナーが最も高揚している瞬間に、「コミュニティの広場」機能を意図的に設計しているからに他ならない。購買行動そのものが「私はこのレースにコミットする」という決意表明の儀式(リチュアル)となり、その儀式を他者と共有する空間を提供することで、ブランドへのエンゲージメントを単なる商品購入から「コミュニティへの参加」へと昇華させている。

その後に続くTCSの戦略はさらに巧みだ。彼らの本業はB2BのITコンサルティングであり、DX支援である。一見、一般消費者であるランナーとは接点がないように思える。しかし、彼らはこのEXPOを「TCSが実現するDXの巨大なショーケース」として活用している。AIチャットによるパーソナライズド情報提供、公式アプリによる数万人の動線管理とリアルタイム追跡。これらは全て、彼らが企業クライアントに提供しているソリューションのデモンストレーションだ。「我々のテクノロジーが、これほど複雑で感情的な巨大イベントをスムーズに、かつ感動的に支えている」という事実を、7万人のランナー(その多くは企業の意思決定層でもある)に体験させる、これ以上ないB2Bマーケティングの場となっているのだ。

HOKAGarmin Hypericeのようなパフォーマンス・ブランドは、「機能の言語化」ではなく「感覚のUX化」で勝負する。HOKAは“クッション性の厚さ(数値)”ではなく“空を飛ぶような軽さ(感覚)”を、トレッドミル体験で提供する。Hypericeは“血流促進(機能)”ではなく“努力の終わりにある休息(感情)”をデザインしている。

この思想は、従来のアメリカ型(スペック至上主義)とも、旧来の日本型(機能の詳細説明)とも異なる。

従来の日本的なマラソンEXPOを想起してほしい。多くの場合、それは「スポンサー提供物の展示」と「割引商品の販売」が中心だ。各ブースは独立・分断しており、来場者は「お得なものを探しに来る消費者」でしかない。そこには一貫したUXジャーニーや、ブランド哲学の体験は存在しにくい。

しかし、NYC EXPOでは、ブランドはランナーのUXジャーニーに「埋め込まれる」存在となっている。

この「購入前から、その世界観を生きる」体験設計は、Apple StoreTeslaのショールーム戦略に極めて近いと考察できる。Apple Storeでは、製品を買う前に「Today at Apple」でクリエイティブな体験を学ぶ。Teslaでは、購入前に試乗を通じて「未来のモビリティを所有する体験」をする。NYCマラソンEXPOは、これら最先端の体験型マーケティングの要素を「マラソン」というテーマの下に全て融合させ、2日間に凝縮させた「参加型・没入型シアター」と呼ぶべきものだった。


第3章:観察知とデータ活用(AI的構造)

このEXPOを歩き回り、私が最も興味を引かれたのは、このイベント全体が、AIを直接的に前面に出さずとも、極めて「AI的な強化学習ループ」で運営されているのではないか、という推察である。

プロンプトの第3章で定義された「AI的UX」とは、単なるデータ収集ではなく、「ユーザーの無意識の行動を学習し続け、体験を改善し続ける構造」を意味する。このEXPOでは、それが人間による高度な「観察知」と、バックエンドのデータ活用のハイブリッドによって体現されていた。

各ブランドは、来場者の「数値化できないデータ」を貪欲に収集している。例えば、ブースの平均滞在時間といった単純なKPIではない。彼らが見ているのは、「滞在の仕方(コンテキスト)」だ。

  • HOKAのブースで、トレッドミルを試す人(=購入検討層)
  • スタッフと熱心に話す人(=ブランドへのロイヤリティ層)
  • 写真を撮るだけの人(=SNS拡散層)
  • 興味深そうに遠巻きに見ている人(=潜在的見込み客)

これらの「行動の質」を、熟練したスタッフが観察し、分類している。Hypericeのスタッフが、体験後のランナーの「表情」を読み取り、タブレットに何事かを記録していた光景は象徴的だ。あれは単なる満足度(5段階評価)ではない。「どの部位」に「どの強度」が最も「快感(あるいは不快感)」の表情を引き出したか、という極めて解像度の高い「身体的・感情的フィードバック」の収集である。

これが翌年のモデル改良や、アプリのUX改善に直結する生きたデータとなる。

TCSの公式アプリは、さらにマクロなデータ活用を可能にしていると推察できる。数万人のアプリユーザーが、どのブースで登録し、どの順番で会場を回り、どのブースをスキップしたのか。この動線データを解析することで、「体験の相関関係」が明らかになる。例えば、「フォーム分析ブース(HOKA)を体験したランナーは、その後にリカバリー・ブース(Hyperice)に行く確率が30%高い」といった知見が得られれば、翌年のブースレイアウトは最適化され、ブランド間のコラボレーションも促進されるだろう。

AIが全てのオペレーションを自動化しているわけではない。しかし、現場のスタッフ(人間)が収集した高度な「観察知(アノテーション)」と、アプリ(テクノロジー)が収集した「行動データ(ビッグデータ)」が組み合わさる。そして、その分析結果が翌年のEXPOの設計にフィードバックされ、体験がさらに洗練されていく。

まさに、「観察(Observe)→ 仮説(Hypothesize)→ 実行(Execute)→ 学習(Learn)」という強化学習のループが、イベント全体で、人間とテクノロジーの共同作業としてダイナミックに回っているのだ。この「AI的」な運営構造こそが、NYC EXPOが毎年進化し続け、他の追随を許さない圧倒的な体験品質を維持している秘密の核心部分であると私は考察する。


第4章:SNS/UGCとの連携(共創モデル)

TCSニューヨークマラソンEXPOの設計において、SNS、特にUGC(ユーザー生成コンテンツ)の誘発がいかに戦略的に組み込まれているかは、特筆すべき点である。

会場内に設置されたフォトスポットの数と質は、圧倒的だった。

自分の名前と国名が表示されるボード。完走ゲートを模した巨大な「NEW YORK ROAD RUNNERS」のバックボード。アスリートの格言が書かれたメッセージウォール。各ブランドが用意した、プロの撮影スタジオのような“フォトランステージ”。

これらの設計には、明確な「スマートフォン画角」への最適化が見て取れる。なぜ「NEW YORK ROAD RUNNERS」の文字はあの大きさ、あのフォント、あの角度で照明が当てられているのか。それは、ランナーがゼッケンを胸に持って自撮りをした時、あるいは他者に撮影してもらった時に、最もアイコニックで「映える」絵になるよう、「SNS映えの記号論」に基づきセンチ単位で計算されているからだ。

しかし、この戦略の真の恐ろしさは、単なる「拡散(バズ)」を狙ったものではない点にある。

ユーザーがInstagramやTikTokに投稿する何万もの写真や動画は、ブランドにとって単なる無料の広告宣伝ではない。それは、UXの質を測るための「最も正直な質的データ」なのである。

例えば、ShokzはSNSへの投稿数やエンゲージメント率を解析することで、「骨伝導イヤホンのどの体験(例:騒音下での試聴、デザインの良さ、スタッフの対応)が、最もランナーの感情を動かし、共有したいという動機付けになったか」を正確に把握することができる。

投稿された写真に写る「表情」(笑顔、達成感、驚き)、そして「タグ付けされた友人」や「一緒に写る仲間」を分析すれば、「誰と(コミュニティ)」「どんな感情で(Emotion)」この体験を享受したか、という貴重なコンテキストデータを収集することが可能だ。

さらに、投稿のキャプション(コメント)をテキストマイニングすれば、「#NYCMarathon」「#HOKA」「#感動した」「#準備万端」といったキーワードの相関から、UXのどの要素がポジティブな(あるいはネガティブな)感情に結びついているかを定量的に分析できる。

この共創構造は、UGCが「広告」から「学習データ」へと進化している決定的な証拠である。

もはや消費者は、ブランドが作った体験を受け取るだけの「受け手」ではない。彼らは自らUGCを生成・発信することによって、無償のマーケティング・パートナーであると同時に、ブランド体験を改善するための「無意識のプロダクトマネージャー」として機能している。

NYC EXPOに出展するブランド群は、このUGCという「学習データ」のフィードバックループをいかに高速で回すかが、翌年のUX改善と競争優位性に直結することを深く理解しているのだ。


第5章:AIと人間の協働モデル

会場全体を数時間かけて歩き、様々なブースで体験を繰り返す中で、私が最も強く感じたのは、AIと人間の「役割分担」の見事さであった。

自動化や無人化が喧伝される現代において、このEXPOが提示していたのは、AIが人間の仕事を奪う未来ではなく、「AIが裏で体験を支え、人間が表で感情を翻訳する」という、極めて洗練されたHuman-in-the-loop(人間が介在する)の協働モデルである。

具体的な例を挙げよう。

TCSの公式アプリ(AI)が、私のスタートウェーブや過去のタイムに基づき、最適なEXPOの導線やブースをリコメンドする。しかし、私が少し迷った素振りを見せると、即座に「May I help you?」と、鮮やかなブルーのジャケットを着たボランティア(人間)が温かく声をかけてくる。AIの提示する「最適解」の冷たさを、人間の「非効率だが温かい共感」が中和し、体験の温度を保っている。

Hypericeのリカバリー・ブーツ(AI/テクノロジー)が、私のふくらはぎに最適な空気圧を自動でかける。しかし、その隣では必ずスタッフ(人間)が微笑みかけ、「強すぎませんか? もし痛かったら、このアプリで調整できますよ」と尋ねる。テクノロジーの「提案」を、人間が「ファインチューニング」するインターフェースとして機能し、ユーザーの不安を取り除いている。

この構造は、AI時代のUXの理想形に限りなく近いと私は考える。

なぜなら、特にマラソンのように、極度の身体的・精神的負荷がかかり、非日常的な緊張状態にある人間にとって、「共感の翻訳者」としての人間は不可欠な存在だからだ。

AIは「最適な解(例:あなたの疲労度なら圧迫レベル7です)」を提示できる。しかし、人間は「最適な解ではないかもしれないが、いまあなたが安心できる解(例:初めてならレベル3から試してみましょうか?)」を提供できる。この「余白」「遊び」こそが、テクノロジーと人間の間に信頼関係を構築する上で決定的な役割を果たす。

自動化が進めば進むほど、人間は「作業者」から「共感者」「翻訳者」「ファシリテーター」へとその役割を進化させなくてはならない。AIが処理すべきタスク(データ処理、最適化、予測)と、人間が担うべきタスク(共感、意味づけ、安心感の提供)が明確に分担され、両者が互いを補完し合う状態。

この協働モデルは、単にスポーツイベントの運営が素晴らしいという話に留まらない。これは、今後の小売、医療、教育、金融など、あらゆる対人サービス産業が目指すべき「AIと人間の共生」の一つの完成形を示していると考察できる。


第6章:グローバルトレンドと競合比較

TCSニューヨークマラソンEXPOの体験設計は、孤立した現象ではない。これは、世界的なビジネストレンド、特に「Emotion Economy(感情経済)」へのシフトと密接に連携している。

Emotion Economyとは、消費者が製品の機能的価値(Function)だけでなく、それがもたらす感情的価値(Emotion)や自己実現(Self-Actualization)に対して対価を支払う経済圏を指す。特にミレニアル世代やZ世代において、この傾向は顕著だ。

スポーツ産業は、このEmotion Economyの最前線にある。

  • Nikeは、”Just Do It”(機能的・精神的勝利)のメッセージに加え、近年はコリン・キャパニックの起用や “You Can’T Stop Us” のキャンペーンに見られるように、社会的な共感やコミュニティの結束を強く打ち出している。
  • Adidasは、”Impossible is Nothing”をサステナビリティ(Parleyとの協業)やカルチャー(Yeezyなど)と融合させ、ブランドの「姿勢」への共感を求めている。
  • HOKAOnといった新興勢力は、トップアスリート向けの「機能性」と、都市生活者の「ライフスタイル」の境界を曖imaisuruデザイン戦略で、新たな感情的価値(=快適さ、ファッショナブルであること)を創造した。
  • Lululemonは、ヨガというマインドフルネスの文脈からランニング市場に参入し、「内面的な充足」と「身体的パフォーマンス」の接続を試みている。

NYCマラソンEXPOの独自性は、これら全てのトレンドを一つの会場に集約し、体験として提示している点にある。

会場では、GarminやShokzのような「テック・ブランド」と、AveenoやDove(スキンケア)、Yakult(栄養)のような「ウェルネス・ブランド」が、シームレスに隣接している。これは、現代のランナーにとって、「身体(パフォーマンス)」「心理(メンタル)」「社会(コミュニティ)」が不可分であり、それら全てを包括的にサポートするUXが求められていることを示している。

日本のスポーツイベントや関連市場では、これらの領域(テック、アパレル、ウェルネス、栄養)がまだ分断されているケースが多い。ASICSやMizunoといった日本ブランドは、伝統的に「機能性(Function)」の訴求において世界最高水準にある。しかし、NYC EXPOで見たような、テクノロジーとウェルネスを融合させ、「感情(Emotion)」や「自己実現(Self-Actualization)」の文脈でブランド体験を再構築する試みにおいては、まだ発展の余地があるように見受けられた。

残念ながら単なる出展・販売に終始している状況

このEXPOの競合比較における最大の強みは、個々のブランドの競争ではなく、「エコシステムとしての協調」である。全てのブランドが「ランナーの成功体験」という共通のゴールに向かって「協調」し、それぞれの得意分野でUXを補完し合う。このエコシステム全体が、他のどのマラソン大会も模倣できない強力なブランド価値を形成しているのだ。

ボルボのラインナップの中で最も新しく、最もコンパクトな**完全電動SUV(EV)をニューヨークの象徴である「イエローキャブ」仕様にラッピングした特別展示車両

「クリーンなイメージ」「サステナビリティへのコミットメント」を体現するモデル


第7章:日本企業への実務的示唆

TCSニューヨークマラソンEXPOの先進的なモデルから、日本の、特に伝統的な産業(例:百貨店、小売、ドラッグストア、メーカー、D2C)に従事する企業が具体的に何を学び、実務にどう活かすべきか。私は、以下の4つの実務的提言を行いたい。

1. 「販売」から「体験の先行配置」へ

日本の多くのイベントや店舗では、「商品説明」が先行し、購買の直前で「体験(試食・試着)」が配置される。NYC EXPOのモデルは真逆だ。「感情を動かす体験」を真っ先に配置し、販売はその「結果」として自然に発生する。

  • 実務提言(百貨店/小売):
    • Who: 催事・MD担当部門
    • What: 「北海道物産展」を「北海道UX展」にリブランディングする。単にカニやメロンを売るのではなく、VRで流氷を体験し、生産者とオンラインで会話し、その土地の“物語”を知った上で、最後に一口試食する。購買は「体験への対価」あるいは「物語への参加費」として再定義される。
  • 実務提言(D2Cブランド):
    • Who: マーケティング・CX部門
    • What: オンラインの「AI肌診断」や「サプリメント・シミュレーション」を、オフラインのポップアップストアで「専門家による1on1コンサルテーション」として提供する。オンラインの効率性(AI)とオフラインの共感(人間)を組み合わせ、体験を先行させる。

2. 「UGC」を“広告”から“UX改善データ”へ

SNS分析を単なる「認知度(インプレッション)」や「エンゲージメント率」の測定に留めていないだろうか。UGCは最も安価で正直なUXのフィードバック・データである。

  • 実務提言(全業種):
    • Who: マーケティング部門、商品開発(R&D)部門、UXデザイン部門
    • What: 顧客がSNSに投稿した「製品を使った写真」「店舗での体験コメント」を分析する「週次UX改善ミーティング」の導入。マーケ部門がUGCのセンチメント(感情)を分析し、開発部門がそれを「次の機能改善」や「パッケージデザイン変更」のインプットとして活用する。

3. 「AI vs 人間」ではなく、「AI × 人間の役割分担」の明確化

AI導入の議論が「コスト削減」や「無人化」に偏りがちだが、NYC EXPOは「AIが処理し、人間が意味づけを担う」協働モデルの価値を示した。

  • 実務提言(ドラッグストア/金融):
    • Who: 店舗運営部門、DX推進室
    • What: AIが顧客の過去の購買履歴や健康データ(ドラッグストア)/資産状況(金融)から「推奨品」や「最適なプラン」をリストアップする。販売員やコンサルタント(人間)は、そのAIの提案を「翻訳」し、「なぜ今、あなたにこれが必要なのか」という**「健康/人生の文脈」**を加えて提案する。AIを「答えを出す機械」ではなく「優秀なアシスタント」として位置づける。

4. 「スポンサー(広告主)」から「UX共創パートナー」へ

イベントやメディアへのスポンサーシップを、単なる「ロゴ露出(認知獲得)」の場として捉えていないだろうか。

  • 実務提言(B2B企業/ブランド部門):
    • Who: マーケティング・PR部門
    • What: スポンサーシップのKPIを「ロゴ露出回数」から「提供したUXによる参加者の感情変動」や「収集できたデータ(インサイト)の質」に変更する。ニューバランスやTCSのように、**「大会(イベント)そのもののUXを共創する主体」**として深く関与する。スポンサー費用を「広告宣伝費」ではなく「R&D費(未来の顧客体験の開発費)」として捉え直すことで、単なる認知以上のブランド価値(=信頼、共感)を獲得できる。

第8章:結論(未来予測)

TCSニューヨークマラソンEXPOは、単なる大規模なスポーツイベントではなかった。それは、AI、データ、空間デザイン、そして人間の感情がシームレスに融合する、「未来のビジネスモデルの原型」そのものであった。

この地で起きているのは、もはや「競技の民主化」ではない。テクノロジー(高性能なシューズ、ウェアラブルデバイス、AIコーチ)によって、かつてはエリートアスリートだけのものであった「最高のサポート」が一般ランナーにも提供されるようになった。これは、「感動の民主化」と呼ぶべき現象である。誰もがテクノロジーを通じて、自らの努力を可視化し、他者と共有し、称賛し合い、そしてブランドがその達成の旅に「伴走」する。

今後、この「体験先行・データ活用・AI協働」の構造は、あらゆる産業に不可逆的な波及を見せると私は予測する。

  • 百貨店は、“物を買う場所”から“ブランドのストーリーを体験し、自己変革のインスピレーションを得る場所”へと進化を余儀なくされる。
  • 製薬会社や食品メーカーは、“病気を治す/栄養を売る企業”から、“日々の健康習慣に寄り添うウェルネス・パートナー”へとその役割を変えていくくだろう。
  • 全てのメーカーは、“物を作る企業”から、“顧客のフィードバック(UGC)を学習し続けるブランド”へと変貌しなくてはならない。

未来のEXPOは、さらに「ハイパー・パーソナライズド・ジャーニー」の場になるだろう。会場に入る前に、公式アプリが私の過去のランニングデータ、健康状態、SNSでの興味関心をAIで分析し、「参加者個人の為だけの特別なEXPO体験ルート」を自動生成するかもしれない。

HOKAのブースで計測したフォームデータが、レース本番のAIコーチングにシームレスに引き継がれる。Hypericeで体験した回復プログラムが、日常の睡眠アプリや食事管理アプリと連動する。EXPOでの「点」の体験が、日常の「線」の体験と融合する、**「フィジタル(Phygital)」**の極致だ。

その時、ブランドの役割は「製品を売る(Sell)」ことから、顧客の目標達成を支援する「副操縦士(Co-pilot)」として「伴走する(Partner)」ことへと完全に移行する。

ニューヨークのコンベンションセンターで見た光景は、スポーツの未来であると同時に、テクノロジーが人間の能力と感情をどこまでも拡張し、「ケア」と「共感」が中心的な価値となる、未来社会の新しい共生の風景だったのかもしれない。

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